2008年11月18日火曜日

1. 私たちの経験

それゆえに、良いことを行うことを欲している自分に、〔まさに〕その自分に、悪しきことが存するという法則を私は見いだす。(ローマ7:21)
すべての者が罪を犯したからであり、〔そのゆえに〕神の栄光〔を受けるの〕に不十分だからである。(ローマ3:23)
キリスト者のために定められたいのち

私たちは聖書から、神がキリスト者に定められたいのちが喜びと安息に満ちたものであり、神との妨げのない交わり、そして神のご意志と完全な調和を持ったものであることを見るでしょう。それは世に乾くことも飢えることもないいのちであり、罪の外を歩み、またすべてを越えるいのちです。確かに、それは聖く、力があり、勝利あるいのち、また神の御旨を知ることを選び、神との絶え間ない交わりを持ついのちです。

神がキリスト者のために定められたいのちは、神のうちにキリストとともに隠されているいのちです。なにものも、このいのちに触れたり、影響を及ぼしたり、揺るがしたりすることはできません。キリストが揺るがないように、私たちもまた揺るぎません。キリストがすべてを超越しているように、私たちもまた、すべてを超越しています。キリストが神の御前におられるように、私たちもまた神の御前にあるのです。私たちが弱く敗北しているなどという思いを決して持たないように。弱さとか敗北などないのです。コロサイ3:4にあるように、「キリストが私たちのいのち」なのですから。かれはすべてに超越しており、何ものにも触れられることはありません。ハレルヤ!これがキリストのいのちです!

キリスト者のために定められたいのちは、安息に満ち、喜びに満ち、力に満ち、そして神の御旨に満ちています。しかし、今日わたしたちがどのような種類のいのちを生きているのか考えてみましょう。もしわたしたちのいのちが、神が定められたようなものでないなら、私たちは勝利を知らなければなりません。それゆえ、私たちは、このことについての私たちの経験を見て行きたいと思います。そしてここで述べることは、私たちの耳には心地よいものではないかもしれません。なぜなら、私たちのある者は不十分だからです。しかし私たちは、神の恵みに欠けた者であり、恵みを受け取るべき者であることを知るために、謙遜になる必要があります。

キリスト者の間にある8種類の失敗

私たちはどのようないのちを生きているでしょうか?罪の法則の束縛のもとに生きていますか?「
良いものを欲するということは私のうちにもあるのだが、それを行為とするということがない」(ローマ7:18)でしょうか?私たちのいのちは罪によって敗北し、束縛されていますか?神がそれほど栄光あるいのちを与えてくださっているのに、私たちはまだ敗北の中に生きているのです。御言葉の記録によると、また私たちが調べたところによると、キリスト者には、8種類の失敗または罪が見られます。

1.霊の罪。高慢、嫉妬、不信仰、あら探し、祈りの不足、そして神に自分を捧げることができないこと。これらすべては霊の罪です。あるキリスト者たちは霊的に勝利を経験していますが、他はこの領域で敗北しています。

 あるとき、高慢が私を悩ませました。高慢な人々すべてが、この霊における罪を犯したことがあります。高慢な人は、他者を自分より優れていると思うことができません。これは世の事柄についてだけではなくて、霊的な事柄においても真実です。そのような人は相手を悪く言おうとします。

 嫉妬は、仕事の中であれ、霊的な事柄においてであれ、罪です。

 ある者たちは、不信仰という悪い心を持っています。もしある人が信者かどうかと問われたなら、彼は自分が神の言葉をすべて信じていると答えるでしょう。しかし、もしそれが、神の約束を本当に信じていますか、という質問であったら、彼はそれが信じられないことに気づくでしょう。小さな試みが彼を動揺させます。彼が神の言葉を信頼できないからです。「私は今日、嘆きのドレスをまといました。なぜならあなたがあまりにも心配していて、まるであなたの神が死んでしまったかのようだからです。」私たちの日々においても同様ですか?

 多くの人々は神の御前を歩んでおらず、神との良き交わりを維持していません。彼らは、来る日も来る日も不注意に生きています。日々を、祈ることも聖書を読むこともなく費やしています。彼らは神との交わりで御顔を仰ぐこともなく、まる1週間を生きることができるのです。来る日も来る日も、主への畏れなしで生きています。これは神の御前での生活に欠けることを表しています。彼らには霊的な生活がないのです。自己の取り扱いという課程を学んだことが全くありません。自分自身を否んだことも全くありません。

 あるとき、2人の兄弟が小さなことで言い合いをしました。彼らが一緒に食卓につくとき、一人の兄弟がいつも先に最もおいしそうな肉を何枚か取ります。もう一人の兄弟はそれに気づきました。彼は1日2日は何も言いませんでしたが、2週間後にもう我慢ができなくなり、その兄弟から離れました。兄弟がどのような人間かは、大抵大きな問題ではなく、小さなことがらにおいて現れると私には思えます。このことで、大好きな本であるハドソン・テイラーの伝記を思い出しました。彼が福音の説教をするためにあちこちを旅するとき、彼に与えられるのは、いつも最悪の部屋と最悪のベッドでした。しかし神の僕であるこの宣教師は、決してつぶやくことも文句を言うこともありませんでした。これは一つの小さな事にすぎませんが、しかし、そのような小さな事柄に対する人の反応が、その人が神の御前でどのようないのちを生きているかを表すのです。

2.肉の罪。霊における罪だけでなく、肉における罪というものがあります。姦淫、慎みのない目、そして不自然な関係です。多くの人々はこれらのことで失敗します。彼らは目で多くの罪を犯します。見ることを抑制することが決してないからです。多くの人々が、間違った友情を続けています。肉の罪のうち、あるものは肉に付随し、他のものは肉に付随するものではありません。

 あなたは目をコントロールしたことがありますか?今日、目で良くないものを見る機会がとても多いことを覚えます。私たちはこの問題を神の御前で取り扱わなければなりません。多くのキリスト者が、目を取り扱うことに失敗しているゆえに勝利に入ることができないのです。

 友情も、ここで考えるべき事柄です。ある兄弟は、一人の未信者との友情を他のだれとの友情よりも大事にしていました。そのような行動は世においては罪として見られることはありませんが、キリスト者である私たちにとって、それは罪です。ある宣教師があるときある人から友情を差し出されましたが、それが排他的なものであったゆえに拒んだということを語っていました。

 3.思いにおける罪。多くの人々は霊の罪は犯さず、また肉も取り扱われたかもしれません。しかし、まだ思いにおいては勝利がないということがあります。彼らの考えは漂い、さ迷い、あちこちに散らばってゆきます。ある人々は、彼らの考えが汚れていて空想的で、疑いと好奇心に満ちていることに気づきます。彼らはすべてを知りたいと思い、わからないということに安住することができないのです。このような思いを持つ人々は勝利ある生活には入っていません。実のところ、実際に思いにおいて勝利を経験している人は殆どいないのです。あるとき私はある姉妹に会いましたが、彼女は自分の思いがなぜいつもふらふらしているのかわからない、と言いました。ある兄弟は、彼の考えはいつも汚れていることを告白しました。私たちが神のいのちを生きたいなら、この領域を取り扱わなければなりません。

 空想や疑いは、多くのキリスト者にダメージを与えます。例えば、あなたが道で会った兄弟が不機嫌そうな様子だったとします。すぐにあなたは、彼があなたのことで不機嫌なのだろうと推測します。しかし、彼の家が近づくにつれ、彼は寝不足で頭も痛いことがわかります。あなたは、彼があなたに何かあるのだろうと考えましたが、実際はまったくそうではなかったのです。

 私たちはいかに想像によって傷つくことでしょう。でも私たちは自分が最も見分ける力があると考えるのです。私たちは、主だけが「人の心と想いとを探し出す者である」(黙示2:23)ことを思い出しましょう。多くの人々が、あの人はああだ、と、間違った想像をします。そうすることによって、私たちは思いにおいて罪を犯したのです。私たちは自分の都合のために、あまりにも多くの裁きを語り、、あまりにも多くを想像します。私たちは神の御前で思いを取り扱わなければなりません。そうでなかったら、私たちはどのようにして勝利するいのちに入ることができるでしょう。

 ある兄弟は、知りたいという過度の欲求に満ちていました。彼がすべてについての理由を知らなければならなかったので、彼はすべてを分析しました。彼の思いは過度に活動していました。しかし彼がすべてを知っていたので、彼は神を信頼することができませんでした。知識に対するそのような欲望は、思いにおけるその他の領域と同様に、真に取り扱われなければなりません。

 4.体の罪。体に集中する特定の行動は、世においては見過ごされているでしょう。しかし、霊的に敏感なキリスト者にとっては、罪深いものです。ある人々は食べることや眠ること、hygiene or adornmentあるいは生きることそのものに心を配りすぎています。それは神の目には罪深いものです。

 多くのキリスト者はとにかく食べることは欠かせないと思っています。彼らは信仰を持ってから、断食というのをしたことがありません。彼らと食事を共にすると、彼らがどんな人々なのかがよくわかるでしょう。彼らがナイフとフォークを持ち上げとすぐに、彼らが本当の性質がわかります。例えば私が会ったある兄弟は、彼の食欲は大盛で特別だと言いました。しかし食べることにおいても、自制がないのは罪です。 

(まだ途中です)