2008年11月24日月曜日

4.勝利するいのちに入る方法

(先を読みたいので、途中をスキップして4章に入ります。訳した分ずつ書き足します。)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20 新改訳)

 神によって備えられたいのちがどのようなものか、そして実際に私たちがどのようないのちを生きているかを見てきました。それは神による勝利の方法、そして人による方法でした。共に純粋さと勝利するいのちの性質を持って、私たちは今、この勝利あるいのちに入るための方法を学んで行きます。そしてここで自然に持ち上がる最も重要な質問は、どうしたら私たちはキリストを勝利として手に入れることができるか、ということです。

 上で取り上げた御言葉は、私たちに、どのように入るのかを示してくれます。まずこの言葉についてお話しましょう。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」なぜなら、そのようないのちに私たちは入って行くのだからです。否定的に、私たちは言うかもしれません。「もはや生きているのは私ではない。」肯定的に、私たちは言うかもしれません。「キリストが私のうちに生きておられます。」ガラテヤ人へのパウロの手紙の中で、彼はすでにそこに至ったと証しています。彼はすでにこの経験を有し、そして彼はすでにそこに入ったのです。彼がどのようにそこに着き、所有し、入ったのかを見てみましょう。なぜならパウロが入った方法は、私たちが入る方法でもあるからです。彼が入った方法は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という言葉の前と後の箇所に現れています。そして入るための1つ目の条件は「私はキリストとともに十字架につけられました。」という言葉に表されています。そして2つ目の条件が次の言葉に見つかります。「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」。この2つの条件をいのちにあって満たすために、パウロはキリストを彼の勝利として、彼の義として、いけにえ、また購いとして手に入れました。この2つの条件をもっとよく見てみましょう。

 A.明け渡し-「私はキリストとともに十字架につけられました。」
 
 最初の条件は、「私はキリストとともに十字架につけられました。」というものです。さて、これはどのような意味でしょう。なぜ私は、この勝利するいのちを手に入れる前に、キリストとともに十字架につけられなければならないのでしょう。今このような質問をしましょう:今日何人の人々がキリスト者として私たちの間で生きているでしょうか。私たちは主イエスを信じるやいなや、イエスが私たちのうちに来られ住んでくださると告白します。「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか-あなたがたがそれに不適格であれば別です。」(2コリント13:5)信じた者たちは不適格ではないことを私たちは知っています。それゆえ、私たちのうちに住んでおられる主は、確かな事実です。しかし、キリストが私たちのうちにおられるのにもかかわらず、私たち自身もまた私たちのうちに住んでいるというのは悲劇的な事実です。キリストを勝利する私たちのいのちとして持つためには、私たちはそこから出てゆかなければなりません。そして私たちが出たとき、この勝利あるいのちを手に入れることができるでしょう。

昨日、一人の姉妹が、この勝利するいのちをどうしたら得られるでしょうか、と私に聞きました。私はとても単純に答えました。「ただあなた自身を去らせることです。」。一つ屋根の下に、二つの家族が住んでいたとします。その中でこの二家族の間に問題が起こりました。状況が間違いなく変わるには、問題のある家族がよそへ引っ越すことです。今日の課題は、あなたのうちにキリストがおられるかどうかではありません。あなたが信じた瞬間に、キリストはあなたの中に来られたからです。問題は、あなたがそこから去らなければならない、ということです。罪深い人間であるあなたが、罪のないキリストと共にいたところから去ればすぐに、すべては良い状態になるでしょう。それゆえ、第一の条件はあなたが去らなければならないということです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。」そのように神の言葉は宣言しています。しかしあなたはこの言葉について何と言いますか。私たちは去ろうと試みたけれど、うまくいったためしは無い、と言わないでしょうか。私たちは死んだふりをしましたが、死ぬことはありません。私たちはしょっちゅう自殺を試みますが、しかしまだ生きています。あまりにも頻繁に私たちは死んでいるように見えますが、しかし死んではいないのです。私たちは私たちを処刑しようとしますが、死ぬことはできません。問題は何なのでしょう。このことについて、もっと徹底的に調べてみましょう。

(1)私にはできない

 私たち皆が、十字架の事実を知っているとします。私たちは主が私たちのために十字架につけられたとき、主は私たちの罪のみでなく、私たち自身も主と共に十字架に連れて行かれたことを知っています。私たちは、ローマ6章の教えを何年も知っています。私たちの罪を十字架で主が負ってくださったように、私たちの古い人は主と共に十字架につけられました。それゆえ私たちは、罪の問題が解決されたのと同様に、私たちもキリストと共に十字架につけられたという知識を持っています。これが、この何年かの間ずっと、私たちが強調してきたことです。間違いなく私はキリストと共に十字架につけられました。しかし私はなぜこの共なる十字架の効果を経験しないのでしょう。主は私を十字架に連れて行かれました。しかし私は同じままです。私は依然として束縛されており、弱く、力も無く敗北しています。御言葉は言います。「私はキリストとともに十字架につけられました。」。ではなぜ、私は力がないのでしょう。多くの救いを得たキリスト者たちは、いつか勝利をえるかもしれない、という虚しい希望を持ちながら、このために多くの努力をしています。それにもかかわらず、勝利は彼らから遠いところにあるのです。

 主イエスが私たちのために成し遂げてくださった救いを知る、というのは一つのこと。しかし、私たちがこの救いを受け取るかどうかは、また別のことです。それは、食べ物を作るのは一つのこと、しかしそれを食べることはまた別のことであるのと同じです。使徒パウロは私たちに、主の死を受け取る方法を示しています。ローマ8章は私たちすべてがすでに死んだことを示しています。ローマしかしローマ7章では、私がなぜ一人のキリスト者として、死んだにもかかわらず、まだ死んでいないのかを語ってくれています。すでに死んだ私が今日生きているというのはなぜなのでしょう。ローマ6章は客観的な真理であり、一方、ローマ7章は主観的な経験なのです。多くのキリスト者が今日ローマ6章を良く知っています。彼らは、彼らがもはや罪の束縛の中にいないこと、律法の下から開放されたこと、そして日々罪に死んでいる者として彼ら自身を評価すべきことを理解しています。しかし彼らが理解していても、それは何の効果もないようです。

その教えと私は遠くに離れています。教えは「私はキリストとともに十字架につけられました。」と言いますが、私はまだ生きている、と私は言います。教えは、私はもはや罪の束縛の中にはいない、と言いますが、そうであっても、罪はまだ私と共にあります。教えは、私は律法の束縛から解放されたと言いますが、そうであっても、私は、私はまだ律法の下にある、と言います。これはどう説明できるのでしょう。その答えはローマ7章に見つけられます。

  ローマ7章は私たちのうちにある隠れた過ちを明らかにします。それは、私たちが神が成されたことを認めず、また神の判決を受け入れていない、ということです。なぜ神は私たちを十字架につけられたのでしょうか。神が私たちを御子と共に十字架につけられたというのは、神は私たちに、私たちは全く役に立たず望みもなかったということ、修正も改善も不可能であったこと、私たちは十字架につけられない限り、私たちには意味も希望もないことを伝えています。それゆえ、十字架は、私たちの一つの評価としてそこにあるのです。十字架の評価は、あなたも私も死に値する、というものです。これが神の、私とあなたに対する査定です。もし私たちが真に十字架を自分の評価として受け取るなら、私たちは、私たちは全く役に立たず、何の良いものもないことを確かに知るでしょう。私たちはまた、私たちが死にふさわしい者である、と、神とともに言うでしょう。神はすでに、私たちは死ななければ、あなたも私も全く希望のない者であると宣言しています。もし私たちが真にこのことを認めるなら、私たちが何か良い行いができるなどと、まだ考えられるでしょうか?

 最近、中国政府がアヘンを吸うことに対する新しい法を公布しました。この改変後は、アヘンを吸った人はすべて撃ち殺されるというものです。公布後にアヘンを吸ったある人が政府に捕まったとします。その人はどうすると思いますか?アヘンをやめられるように医者に行っていくつか注射をしてもらい、死を免れようとするでしょうか。そんなことをしても意味がありません。なぜでしょう。彼はすでに死刑囚だからです。そこで何か少しでも良いことをするとか、自分を変えようとは思わないでしょう。彼はただ死を待つのみです。同じように、神は私たちが死に値し、修正も改善もする余地がないと言われました。それなら、もし神の私たちに対する判決が死であるなら、なぜ私たちは自分を良くするために、何か良い行いをしようと考えなければならないのでしょうか。

 私たちが救われるに、自分自身を修正や改善することが無意味であると認めても、救われた、今度は神を喜ばせるために同じことをしようとしてしまうのです。私たちは何度、良くなろうと決心したことでしょう!神に対して何とたくさんの霊的な約束をしてきたことでしょう!神に対して、あなたが私たちに望まれることは何でもしましょう、と言ってきました。私たちは神に、朝は早く起きると約束しました。明日は熱心になります、と約束しました。多くの約束をしましたが、その中のどれぐらいが実際に成し遂げられましたか。西洋から来られたある姉妹は、人生で30種類のことについて神に約束したけれど、守れたことは一つもなかった、と語ってくれました。これは、私たちが神の評価を受け入れていないこと、また私たちについての判決をも受け入れていないことを表しているにすぎません。私たちは死を運命づけられましたが、医者に見てもらうことや、もっと素敵な洋服を着ることなどについて考えるのに忙しかったのです。

 ああ、十字架が人への神の絶望を表していることに気づきましょう!十字架は人に対する神の失意を告げているのです。それは、私たちを修正も改善もできないと伝える神の方法です。神にできるのは、ただ私たちを十字架につけることです。驚くことは、私たちが完全な堕落についてすでに知っているのに、そして、それゆえの私たちの十字架刑であるのに、それにもかかわらず、私たちはそんなに悪い者ではない、と主張し続けているということです。だから私たちは今日神に数々の決心をしたし、明日はさらに多くの決心をするでしょう。ああ、神よ、今後はかんしゃくを起こさないようにします。ああ、神よ、この間の決意は十分ではなかったのです。今度こそ、ああ神よ、さらに固く決心します。このように決心の上に決心を重ねます。それが私たちの方法でした。パウロは続けます。「良いものを欲するということは私のうちにもあるのだが、それを行為とするということがないからである。」(ローマ7:18)。いつも決心し、いつも失敗です。私たちの先にいるパウロのように、今日の私たち多くにとっても、これが共通の経験です。決心や約束はもう十分ではないですか。これからは、神が私たちについて言われることに耳を傾けましょう。神は、私たちは役に立たず望みもないので、死にふさわしいと言っているのです。

 「私はキリストとともに十字架につけられました。」というのは、神が私に失望し、また私は、パウロのように、自分自身に絶望した、という意味です。神は私を隅々まで見られたのです。神は私が役に立たないことも望みがないことも知っておられました。だから私もまた、自分を望みのない者と評価し、自分は決して神を喜ばせることができないと告白します。神にできることは、私を死に至らせることだけです。肉にある者たちはすべて全く望みがなく、それゆえ死にふさわしいのです。
 最近、私はいくつかの家族に会いに行きました。その中には夫が病気の家族があり、妻が病気の家族があり、また子供が病気の家族がありました。そのような家族が希望を失い始めたとき、彼らは私に言いました。「神の御旨なら、彼/彼女が早く取り去られますように。」。なぜそのようなことを言うのでしょう。もはや希望がないからです。希望がないときに、人は早く死を迎えるほうが良い、と考えます。神は私たちに、私たちには望みがなかったと、だから私たちを十字架につけることしかできなかったと言ったのではないですか。私たちは望みがないので十字架につくほうが良いと、私たちも言えないでしょうか。

 ここが私たちの問題です。一方で私たちはローマ6章の評価を良く理解していますが、もう一方では、ローマ7章の決心を繰り返してしまいます。私たちは未だに神に約束をし、未だに自分たちには何か良いところがあると思っているのです。どんなにローマ6章がはっきりと語ろうと、私たちはローマ7章を行ってしまうのです。ローマ6章はパウロに対する、あなたは役に立ちませんよ、という神の判決です。ローマ7章は、確かに自分は確かに役にたたないことを認める、パウロの不承不承の告白です。神は私たちを隅々まで見られたのです。そしてはっきり見た後、私たちについての望みを捨てられたのです。神は私たちは何にもふさわしくないとみなし、完全に役に立たない、と宣言します。では、私たちはそれにどう応えるでしょう。私たちも自分に失望し、役に立たない者であると認めるなら、私たちはすぐに解放されるでしょう。あなたや私が高慢で嫉妬深く、怒りやすく、不正直であり続けることを神が許してこられたのは、それらの罪、また他の罪が私たちをいらいらさせ、ついに私たちは本当に自分は駄目であることを見せるためでした。それなのに私たちはもっと良くなれるだろう、と、決心に決心を重ね、結局は以前と何も変わらないで終わっているのです。それがローマ7章におけるパウロの経験です。ローマ6章は単に教えなので、私たちの完全な不可能を確信させるために、そしてそれが事実であることに私たちが気付くために、ローマ7章の経験が必要なのです。

 もし誰かが、自分が完全に堕落していると告白するなら、私はハレルヤ、アーメンと応えます。私、ウォッチマン・ニーは芯まで堕落しています。ハレルヤ!パウロは生きている間に、全く望みがないというところに帰着したのです。彼は長年苦しみました。彼には十字架が適していたのです。今日、もしあなたも自分が役に立たないと認めるなら、あなたはすぐに解放を受けるでしょう。

 神はなぜ私たちが十字架の評価を受け入れることを願っておられるのでしょう。それは、その評価を受け入れることによって、私たちがついに主を私たちの聖として、完全として、また勝利として喜んで受け入れるようになることを、神は知っているからです。しかしもし私たちが少しでも希望を胸にいだくなら、神は私たちが十字架を受け入れることができるように、希望が持てないところまで連れて行かなければなりません。私たちが自分の不可能さに最終的に気付き、それを認めるために、ローマ7章の経験によって、神は私たちをその場所に連れて行かなければなりません。

 しかし不思議なことに、多くの人々がついに彼らの無力さを知っても、まだ勝利を経験していません。なぜなのでしょう?それは神が、明け渡しという、このことについてのもう一つの側面をも持っておられるからです。

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