2008年11月30日日曜日

4-A-(2)私はしません

 昨日お会いした姉妹は、何十年にも渡る敗北の過去を語るのに2時間かかりました。彼女が話している間、私は微笑んでいました。そして彼女に、望みがないとあきらめるのに、もう十分失敗しましたか、とたずねました。確かに彼女は自分が無力であるということを告白しました。が、彼女に一つ欠けていることがありました。私たちは、単に自分の無力を認めるだけでは勝利を得ることはできません。無力を認めることと、すべてについて降参することは別のことです。私はこの姉妹に、無力を認められたことは良かったけれど、まだ勝とうと努力していることに気付いていますか、と聞きました。もし彼女が自分にはできないと知っているなら、自分の行いをやめるべきです。彼女は自分の無力さを認めても、まだ自分には何かできるだろうという望みを持っているのです。それで私は彼女に何度も繰り返しました。「あなたは、自分がまだ行っているということがわかりませんか?自分で勝利を得ようとしていることが理解できませんか?」彼女は葛藤し、奮闘し、そしてそれゆえに勝利を得ることができなかったのです。もう一度、私はこの姉妹に十字架を受け取るように、自分の無力さを認めるように、そして努力によって勝利できると期待するのをやめるように、と促しました。彼女は私に、それでは私は何をすれば良いのですか、と聞きました。私は、もし彼女が何かしなければいけないように感じるなら、必ず失敗に終わるでしょう、と言いました。しかし、彼女の結論はこうでした。「はい、私は自分が行うときには失敗することを認めます。でも、もし私が行わなかったら、もっと失敗するのではないですか?」真に、多くの人々の問題はここにあります。全く力もなく役にも立たないのに、多くの努力をすると主張し、結果、彼らに勝利はないのです。

 それゆえ、明け渡しの領域において、勝利は2つの本質的な側面を持っています:第一に、神のあなたに対する評価は正しいと認めること;そして二つ目は、勝利について考えることさえやめること、なぜならあなたはすべての希望を捨てたのですから。ある兄弟が私に言いました。「でも、私には信じられません。」。「それでは、神に、私には信じられません、と言ってください。」私は言いました。「神はただあなたが不信仰を告白することを願っておられるのです。」 

 「私はキリストとともに十字架につけられました。」と確信をもって言うことは、私はキリストの御手の中にすべてを置いたので、これから私は勝利も敗北も気にしません、という意味です。勝利すべきことについて握っていた手を離し、もうそのことを心配するのをやめます、という意味です。私はこれ以降自分を神に委ね、勝利は神の仕事であり私のではないことを神に告げます。ある兄弟が、どうしたら勝利に入れるでしょうか、と私に聞きました。私の返事は、「手放すこと」でした。「手放す」とは、「これは私が何かすべき問題ではない」という意味です。

 私たちは神に対して、「私は怒りが爆発するのを止められません。私は永遠に癇癪を抑えられないでしょう。そして譲歩することもできません。でもこれからは、自分でコントロールすることをやめ、自分自身を完全に手放します。」という心の態度を持つかもしれません。しかし残念なことに、私たちが神に、私たちにはできない、そしてしない、と言っても、それでもなお一旦神の臨在を離れると、自分自身を取り戻してしまうのです。ああ、何かを持って神の前に行ったら、去るときはそれを神のところに置いて来るべきことを学びましょう。神の前に放棄し、それをそこに置いて来ることができる人は解放されます。

 あるとき、私は原稿を複写してもらうためにある姉妹に持って行きました。その目的のために、わざわざ彼女を訪ねて行きました。しかし私は無意識にそれを持って帰ってしまいました。彼女がそうしたいと思っても、その原稿を複写できないのは明らかです。今日の私たちの多くの祈りはそれと同じです。私たちは口で、ああ神よ、助けてください、と言います。しかしながら祈りのあと、自分を家に連れて帰ってしまうのです。

 手放すというのは私たちにとって非常に重要なことです。こう祈りましょう。「ああ神よ。私には勝利することができません。勝利することを目指すこともしません。そして勝利しようとがんばりません。」。これが、「私はキリストとともに十字架につけられました。」という言葉の、聖書が語っていることの意味です。何と素晴らしいメッセージでしょう!

 朝早くサタンは、あなたは全く良くなっていない、と責めるかもしれません。あなたには何の変化もないのですから。さて、心配し始めますか?そのことで何かしようという誘惑にかられますか?「自分が完全に堕落していることはずうっと前にわかった。そして私は希望を捨てた。自分を良くしようとはしない。」。もしそう思うなら、あなたは即座に失望から抜け出すでしょう。何と素晴らしいことでしょう。それが変化ではなくて交換するかどうかの問題だからです。単純に、神が成し遂げてくださった事実を掴むことです。もし何か良いところがあったなら、神があなたを十字架につけることはなかったでしょう。あまりにも完全に堕落しているので、神はあなたを十字架につけ、キリストをあなたの中に置かれたのです。そうすればあなたが自分を去らせることができるからです。さて、これをどう実行しますか?ただこう言いましょう。「神よ、私には良いことはできません。良いことをしようとしません。ああ主よ、これから先、私は終わりです。私は完全に堕落しているので、何かできるだろう、と試してみることさえしません。」と。あなたはそのように手放せますか?
  
 もうすぐ70歳になるある医者が喫煙の問題で葛藤していました。ある日の集会の中で、彼はたばこをやめるための戦いのことを話しました。神を良く知っている一人の青年がそこにいました。彼は医者に言いました。「もし私があなたの立場なら、私は戦いません。」「私は戦ってもやめられないということがわからないのですか?戦うのをすっかりやめてしまったら、どんなひどいことになるでしょう!」「いいえ、そうではありません。」青年は言いました。「私なら神に言うでしょう。ああ神よ、私はたばこをやめられません。しかし神よ、たばこを吸うことを、どうか私から取り上げてください。」医者は、その助言の論理を理解しました。そして心から祈りました。「ああ神よ。私にはどうしてもたばこをやめられません。今、努力をやめます。ああ神よ。この問題をあなたに手渡します。私は何もしません。ただ、たばこを吸うことを私から取り上げてください。」彼は通常、1日に12~20本のたばこを吸っていました。そしてそれは50年も続いていたのです。しかし彼が主に委ねたその翌日の朝、彼は思い出せる限り人生で初めてたばこを吸いたいと思わなかった、と人々に告げたのです。

 聖くなれると思うなら、間違いなく失敗するでしょう。完全になれると思うなら、絶対に失敗するでしょう。忍耐深くなれると思うなら、確実に失敗するでしょう。神は、あなたが修正や改善の余地がないとすでに判断されたからです。「私はキリストとともに十字架につけられました。」とパウロと共に言えますか?私は完全に堕落し、全く役に立たず、十字架に値する、と?これはパウロがガラテヤ人への手紙で宣言したことです。私は北京の兄弟に、この勝利の問題について質問しました。「努力するのをやめましたか?」「神に感謝し褒め称えます。私は終わったのです。」兄弟は答えました。これは勝利に絶対不可欠な条件です。あなたは神の前で、自分が全く役に立たない者であり、修理も改善も不可能であることを見なければなりません。あなたにできることはただ、「主よ、これから私はすべてをあなたに委ねます。今から後、あなたが私のためにすべてを成してください。」と祈るのみです。

 しかしながら、この確信を持ってさえ、ある兄弟たちや姉妹たちはまだだめだ、と言います。自分は終わったとしても、そして彼らはキリストとともに十字架につけられたとしても、まだ、自分は敗北の中にいるのです。なぜ彼らは勝利を経験できないのでしょう。それは彼らが勝利を経験するのに、もう一つの言葉を必要としているからです。そしてこれが、勝利を得るための2つ目の条件です。

4 件のコメント:

Koji さんのコメント...

もう、何にもしません。なんて、素晴らしいんでしょう。
こんな良い話をどこでも聞いたことがありません、

emi さんのコメント...

本当に。

主が十字架で勝ち取ってくださったものを、この地にいる間にも目いっぱい味わいたいです。

Kojiさんが良く言う「主に丸投げ」って、ここから来てたんですね。

匿名 さんのコメント...

そうです。らくちんです。いやはや、この本を残してくれたイエスとニーに感謝です。

emi さんのコメント...

今朝目を覚ましたとき、あることで「変わらなければ…」という思考に入っていることに気付き…あ、これだ!と(笑

また一つ丸投げ。ただ主に。
何もしなくていい。変わろうとしなくていい。
なんてらくちん^^

主とニーに感謝ですね。